~国ではなかったパレスチナの運命と、続く対立の軌跡~
こんにちは、皆さん。今日は、イスラエル・パレスチナ紛争の原点とも言える「1947年の国連パレスチナ分割決議」について、初心者さんでも分かりやすいように解説します。このテーマは複雑で、時には感情的になる人も多いですが、歴史的事実を基に、質問形式で進めていきましょう。なぜなら、皆さんの疑問に直接答えるのが一番分かりやすいからです。私の知識は2025年10月現在のものですので、最新の状況も織り交ぜてお伝えします。では、早速始めましょう!
1. 1947年11月29日、国連総会でパレスチナ分割決議が採択されましたが、パレスチナは国ではなかったのですか?
まず、基本から。1947年11月29日、国連総会で採択された「パレスチナ分割決議」(正式には国連総会決議181号)は、パレスチナの土地をユダヤ人国家とアラブ人国家の2つに分けるという大胆な提案でした。でも、当時のパレスチナは、独立した国ではありませんでした。
パレスチナの歴史を少し遡ってみましょう。19世紀末まで、この地域はオスマン帝国(今のトルコの前身)の領土でした。第一次世界大戦(1914-1918年)でオスマン帝国が敗北すると、国際連盟(今の国連の前身)が英国に「パレスチナの委任統治」を託しました。つまり、英国が一時的に管理する「植民地のような」地域だったのです。英国は1920年から1948年までここを統治し、正式な「パレスチナ国家」は存在しませんでした。住民はパスポートも持たず、英国の保護下で暮らしていました。
この決議は、英国が「もう管理しきれない」と国連に丸投げした結果生まれました。国連特別委員会(UNSCOP)が調査し、ユダヤ人とアラブ人の対立を解決するために分割を提案。賛成33、反対13、棄権10で採択されました。でも、この決議は「勧告」なので、法的強制力はありませんでした。 つまり、パレスチナは「国」ではなく、英国の「委任統治領」だったのです。これが、後の混乱の種となりました。
2. もともとパレスチナにはどのような民族が住んでいたのですか?
次に、パレスチナの「もともとの住人」について。パレスチナ地域(今のイスラエル、ヨルダン川西岸、ガザ地区あたり)は、古代から多様な民族が住む土地です。紀元前からセム系のカナン人、ユダヤ人、フィリスティン人などが暮らしていましたが、中世以降はイスラム教徒のアラブ人が主流になりました。
19世紀末のオスマン帝国時代、パレスチナの人口は約50万人で、ほとんどがアラブ系住民(ムスリム約80%、キリスト教徒約10%、ユダヤ人約5-10%)でした。 英国委任統治が始まった1920年代の国勢調査では、総人口約75万人中、アラブ系が90%以上を占めていました。
しかし、状況が変わったのがここからです。19世紀後半、ヨーロッパで反ユダヤ主義(ユダヤ人差別)が激化。ナチス・ドイツのホロコースト(600万人のユダヤ人虐殺)も影響し、ユダヤ人たちは「故郷に戻ろう」とパレスチナへ移民を始めました。これが「シオニズム運動」です。
<シオニズム運動の解説>
シオニズムとは、ユダヤ人のナショナリズム運動で、
「シオン(エルサレムの丘の別名)の地にユダヤ国家を!」というスローガン。
1897年、オーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルがスイスで第1回シオニスト会議を開催し、組織化しました。
目的は、迫害から逃れるための「安全な故郷」建設。資金を集めてパレスチナの土地を購入し、入植を促進。1882年から1948年までに、約60万人のユダヤ人が移住(これを「アリヤ:上昇」と呼びます)。1947年頃の総人口約190万人中、ユダヤ人は32%(約63万人)に増えましたが、アラブ系住民がまだ68%(約120万人)と多数派でした。
この移民増加が、アラブ人とユダヤ人の摩擦を生みました。アラブ人は「自分たちの土地が侵略されている」と感じ、ユダヤ人は「歴史的な帰還」と主張。土地争いや暴動が頻発したのです。
3. 分割決議で元々住んでいた民族の反発はなかったのですか?
元々住んでいた民族の反発はありませんでした!むしろ、アラブ系住民(パレスチナ・アラブ人)の反発は激しく、決議は即座に拒否されました。
<分割案の内容はこうです>
パレスチナの土地約56%をユダヤ人国家に、43%をアラブ人国家に割り当て、エルサレムは国際管理地域に。ユダヤ人は人口32%なのに土地56%もらうなんて、不公平だとアラブ側は怒り心頭。パレスチナ・アラブ人の指導機関「アラブ高等委員会」は1947年9月に拒否を宣言し、アラブ連盟(エジプト、ヨルダンなど7カ国)も反対。決議採択直後、パレスチナ内でストライキ、デモ、暴動が爆発。ユダヤ側は歓迎しましたが、アラブ側の抵抗が1948年の戦争を引き起こしました。
アラブ人は「統一されたパレスチナ国家」を望んでいました。シオニズムの移民を「植民地主義」と見なし、土地の大部分を失う決議を「不当」と非難。結果、約70万人のパレスチナ人が難民化する「ナクバ(大惨事)」の始まりとなりました。
4. アラブ系住民、アラブ諸国とユダヤ人国家の対立は何時まで続いたのか?
この対立は、1948年のイスラエル建国から今も続いています(2025年現在)。
パレスチナ人(元々のアラブ系住民)、アラブ諸国(エジプト、ヨルダンなど)、ユダヤ人国家(イスラエル)の間で、土地・資源・主権をめぐる争いです。和平の試み(オスロ合意など)はありましたが、根本解決に至らず。以下に、主要イベントのタイムラインを縦書き風にまとめました。
・1948年
主要イベント:第一次中東戦争(ナクバ)
概要:イスラエル独立宣言後、アラブ諸国が侵攻。イスラエル勝利で領土拡大、パレスチナ人約70万人が難民に。英国委任統治終了。
・1956年
主要イベント:第二次中東戦争(スエズ危機)
概要:イスラエル・英仏がエジプトのスエズ運河をめぐり侵攻。国際圧力で撤退も、緊張高まる。
・1967年
主要イベント:第三次中東戦争(六日戦争)
概要:イスラエルがエジプト・ヨルダン・シリアに先制攻撃。ヨルダン川西岸、ガザ、東エルサレム、ゴラン高原を占領。現在も争点。
・1973年
主要イベント:第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)
概要:エジプト・シリアがイスラエルに奇襲。停戦後、1979年のエジプト・イスラエル平和条約のきっかけに。
・1987–1993年
主要イベント:第一次インティファーダ
概要:パレスチナ人の占領地蜂起。石投げデモから大規模抵抗へ。国際世論を動かす。
・1993年
主要イベント:オスロ合意
概要:イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)が相互承認。パレスチナ自治政府(PA)樹立で一時平和ムード。
・1993年
主要イベント:オスロ合意
概要:イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)が相互承認。パレスチナ自治政府(PA)樹立で一時平和ムード。
・2000–2005年
主要イベント:第二次インティファーダ
概要:和平交渉失敗で再び衝突。自爆テロとイスラエル軍事作戦で数千人が死亡。
・2006年
主要イベント:レバノン戦争
概要:イスラエルとヒズボラ(レバノン系武装組織)の戦闘。国境地帯で激戦。
・2008–2021年
主要イベント:ガザ地区での複数回の軍事衝突
概要:ハマス(パレスチナ過激派)がロケット攻撃、イスラエルが空爆(2008-09, 2012, 2014, 2021)。ガザ封鎖が深刻化。
・2023–現在(2025年10月)
主要イベント:イスラエル・ガザ戦争
概要:ハマスがイスラエルを奇襲(死者1,200人超)。イスラエル軍のガザ侵攻でパレスチナ側死者4万人超。停戦交渉難航中、人道的危機続く。
このタイムラインを見ると、対立が「過去の話」ではなく、現在進行形だと分かります。和平プロセス(キャンプ・デービッド、ロードマップ計画)で希望が見えましたが、定住地拡大やテロが壁に。2025年現在、ガザの復興と西岸の緊張が世界の注目を集めています。
5. 1948年にイスラエルが建国されたが、アラブ国家は建国していないが、国家ではなく、何になったのか?
1948年5月14日、イスラエルは独立を宣言し、米国が即承認しました。一方、
「分割決議で予定された(アラブ人国家)は建国されませんでした。」
アラブ側が決議を拒否した上、第一次中東戦争でイスラエルが勝利したためです。
<戦争後、予定地はどうなったか? >
イスラエルが決議以上の土地(78%)を獲得。残りのヨルダン川西岸はヨルダン王国が占領・併合(1950年)、ガザ地区はエジプトが軍事統治しました。つまり、
「独立国家ではなく、近隣アラブ諸国(ヨルダンとエジプト)の占領地」になったのです。
パレスチナ・アラブ人は国家を持たず、難民キャンプで暮らすことに。ヨルダンは西岸を「ヨルダン領パレスチナ」と呼びましたが、1988年に放棄。エジプトもガザを正式併合せず、管理だけでした。
6. パレスチナはなくなったのか?
いいえ、パレスチナは「なくなった」わけではありません。
地理的・文化的概念として今も存在し、パレスチナ人のアイデンティティは強いです。1964年、PLOが設立され、国家建設運動が本格化。
「1993年のオスロ合意でパレスチナ自治政府(PA)ができ」、西岸とガザを部分統治。
2012年、国連で「非加盟オブザーバー国家」として承認され、約140カ国が国家承認しています。ただ、完全な主権国家化は未達。イスラエル占領下で、ガザはハマス、西岸はPAが分断統治。
2025年現在、パレスチナは「存在するが、未完成の国家」状態です。
国連加盟を目指す運動が続き、国際支援も増えています。
7.歴史から学ぶ平和への道
1947年の分割決議は、善意の解決策が新たな対立を生んだ象徴です。シオニズムの夢とアラブ人の権利がぶつかり、70年以上続く紛争に。ですが、歴史は繰り返さないためにあります。両者の共存を願う声は世界中に。皆さんも、この複雑な物語を理解して、平和を祈りましょう。ご質問があれば、コメントください!
(参考:国連文書、歴史書、NHK報道などに基づく)
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