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東海道は53ではなく「57次」だった?
知られざる歴史と宿場町まとめみなさん、こんにちは!江戸時代の旅といえば、真っ先に思い浮かぶのが「東海道五十三次」ですよね。歌川広重の浮世絵でも有名で、「日本橋から京都までの53の宿場町」を巡る旅のルートとして広く知られています。ですが、実は歴史の表舞台にあまり出てこない「東海道五十七次」が存在することをご存知でしょうか?「えっ、53じゃなくて57もあるの?」と思われた方のために、今回は五十三次と五十七次の違い、そしてなぜ4つの宿場が追加されたのかについて分かりやすくまとめてみました!

1. 定番の「東海道五十三次」とは?まずは基本となる「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」のおさらいから。起点と終点:江戸・日本橋 〜 京都・三条大橋宿場数:53宿成立のきっかけ:徳川家康が江戸幕府を開いた後、街道や馬宿を整えた(1601年〜)江戸時代のメインストリートとして発展し、参勤交代の武士から一般の旅人、お伊勢参りの人々などで大賑わいを見せました。広重の浮世絵『東海道五拾三次』が爆発的にヒットしたことで、現代でも「東海道=53の宿場」というイメージが定着しています。

2. 実は存在した!「東海道五十七次」の正体では、「東海道五十七次(とうかいどうごじゅうななつぎ)」とは何なのでしょうか?一言でいうと、「京都へ行かずに、そのまま大阪(大坂)まで向かうルート」のことです。起点と終点:江戸・日本橋 〜 大坂・高麗橋(京橋)追加された4宿:伏見、淀、枚方、守口ルート分岐:52番目の宿場町である「大津宿(滋賀県)」から分岐なぜ53から57に増えたの?(追加の4宿)大津宿を過ぎたあと、京都(三条大橋)へ向かわず、伏見街道・京街道を通って大阪へ抜けるバイパスルートがありました。幕府はこのルートにも4つの公認宿場を設置します。伏見宿(京都府京都市)淀宿(京都府京都市)枚方宿(大阪府枚方市)守口宿(大阪府守口市)既存の53宿のうち最後の「京都」を除き、手前の「大津」から新しい4宿を加えたことで、52 + 4 = 56宿(起点・終点を含めて57次)となる計算です。

3. なぜ「五十七次」はあまり知られていないのか?西日本の経済の中心地であった「大坂」へ向かうこのルートは、政治・商業的にも非常に重要でした。しかし、なぜ現代では「五十三次」ばかりが有名なのでしょうか?主な理由は次の2点と言われています。幕府の公文書(公式記録)による違い幕府の道中奉行(街道を管理する役職)の管轄として、公式に「東海道」と定められていたのは京都までの53宿でした。大坂までの追加区間は「京街道」や「大坂街道」などと呼ばれることが多く、東海道の“延長線”のような扱いを受けていたのです。浮世絵(カルチャー)の影響歌川広重をはじめとする浮世絵師たちが描いて大ヒットしたのは、皇居(御所)のある「京都」へと向かう景勝地を題材にした作品でした。このポップカルチャーのヒットが、人々の記憶に「五十三次」を強く刻み込むことになりました。

4. 「五十三次」と「五十七次」比較表分かりやすく2つの違いを整理してみました。項目東海道五十三次東海道五十七次起点江戸・日本橋江戸・日本橋終点京都・三条大橋大坂・高麗橋宿場数53宿56宿(起点・終点を入れて57次)主な目的政治の中心(江戸)と文化・皇室の中心(京都)を結ぶ江戸と経済・物流の中心(大坂)を直接結ぶ特徴浮世絵で有名、観光・旅の王道武士の参勤交代や物流のバイパスルートまとめ:東海道の歴史は大阪まで続いていた!「東海道五十三次」として有名な日本の街道歴史ですが、実は天下の台所である「大坂」までしっかり一本の道として整備されていたのが「東海道五十七次」の面白さです。現代でいえば、「東京〜京都の定期ルート」と「東京〜大阪の直行バイパスルート」のような関係でしょうか。歴史ゆかりの地を歩く「街道ウォーク」や旅行を楽しむ際は、ぜひ京都の手前で折れて枚方や守口を通り、大阪・高麗橋を目指す「五十七次の旅」にも注目してみてくださいね!この記事が面白かったら、ぜひSNSでのシェアやコメントをお願いします!

 

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